たまご焼き
~2012年12月
常套句
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七夕の日、私の病状は悪化していました。
家族には、今まで全てを隠さず伝えていましたが、あの時ばかりは苦しくて、言い出すまでには時間がかかりました。
標準治療はもうなくなりました。
経済的、心理的な不安をかかえ、どう過ごせばいいのか、毎日人のいない家の中で、一人おなかの痛みと不調と向き合いながら、真剣に考えていました。
そして、起きて過ごす時間がどんどん短くなりました。
「先生は、終末期をどこで過ごしたいの?」
「私は家で過ごしたい。」
「わかったよ。私も絶対逃げないからね。」
劇団四季のキャッツを見せてくれた親友と、真剣にこんな話をした時には、涙は全く出ませんでした。
一方、「病状があまり進まないうちに、自分の終末期の希望病院と家族の生活の方向性を決めなければ。」と院長に言われた時には、 「つらいんだ」と泣くばかりで、気持ちがついていけませんでした。
がんばろうと少しでも思える時には元気でいられるのですが、明らかに自分の体が悪くなっている時には、現実に備えて準備をしようと言われても、わけのわからない焦りと恐怖で崩れ落ちてしまうのです。
終末期の病院選びは、早すぎても遅すぎてもいけないのです。
適切な時期があるような気がします。
半年後に高校受験を迎える娘と、入学したばかりの中学一年生の息子を残して、私は絶対に死ぬわけにはいかないのです。 院長は私を支えてくれます。
しかし、気づかずに私を傷つけます。
私もそう。 家族を支えて、家族を傷つけて生きています。
これがガンなのです。
それが今、なぜこのように元気になれたのでしょうか。
キセキです。
今は息を吸うこと、歩くこと、前かがみになって靴ひもをしばること、食べること、トイレでおしりをふくこと、なんでも自然にできます。
やっと再発したガンの進行を抑えることができました。 嬉しかったです。
しかし、私が元気になったと同時に、父は体調不良となりました。
戦う父を前に、こんな私でも支えることができています。
「純ちゃん、不安に思うことはやめて生きよう。楽しい前向きな人生を生きよう。」
父はそう言ってくれました。
病気を受け入れ治療にのぞむ時期は、実は一番つらい時です。
しかし、支える医療だけではなく攻める医療をすすめて下さった、 主治医の先生とそれを希望した父を、私は深く尊敬しています。 今私達は命いっぱいの毎日を過ごしています。 2012年もよい一年でした。
お父さん、一緒に生きて行こうね。
絶対負けないよ。
平成24年12月14日
郡山純子
Mr.Childrenのニューアルバム『blood orange』、お聞きになりましたか?
私は4曲目が好き。
何していますか 気分はどう?
愛しています 君はどう?
って。
もちろん愛しています。
全ての私の患者さん達を。
来年は現状維持を目標にがんばります。
メリー・クリスマス! 2012年12月14日
宇宙兄弟
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今日の夜空もきれいだなあ。
SEKAI NO OWARIの「眠り姫」という曲を聞きながら、外の空気を思いっきり吸ってきました。
今日は抗ガン剤治療を行った当日なので、興奮して眠れません。
前回使用した薬よりも今回の薬は手足のしびれや痛みがなく、吐き気も少ないのでとても楽です。
あえて大変な事といえば、顔でしょうか。
ニキビがあるのに乾燥肌となり、顔の皮がむけてヒリヒリします。
しかし、毎日こうして元気に過ごせるのですから、幸せです。
ガンが再発したことがわかった時、そしてその再発ガンに対する抗ガン剤治療がうまく効果を発揮していないとわかった時、私は耐え難い気持ちで苦しかったです。
しかし、大きな衝撃を受けながらも毎日生かされていること、持ちこたえていることに感謝をしながら一日一日を大切に過ごしてきました。
今、私は心も体もとても元気です。
「神様、私の体の中にはまだガンがあるのでしょうか?本当でしょうか?」と思うくらいです。
3月から毎週木曜日の抗ガン剤治療となりましたが、週の初めには復活し、水泳もランニングも食事も睡眠も十分満足のいく時間と量を取れるようになりました。
そしてだいぶ心も落ち着いてきたので、こうしてブログを書くこともできるようになりました。
今回は、嬉しかったことを書かせて下さい。
昨日、大好きな音山先生からプレゼントが届きました。
山形名物ラフランスのゼリーです。
18歳で一人暮らしを始めた私にとって、音山先生は山形のお母さんというような温かい存在でした。
山形大学の推薦入試の前日、山形には大きなぼたん雪が降っていました。ふわふわした雪というよりは、薄暗い少し悲しげな雪。
合格したいけれど、あまりにも遠いこの街には寂しくて住めないなと思いました。
しかし、6年間の学生生活はとても楽しく、私の今を支えてくれるたくさんの方々と知りあうことができました。
その山形で、女性医師音山先生には大学での講義とともに、茶道を教えて頂きました。
現在88歳だそうですが、現在も茶道の指導を続けていらっしゃるスーパーウーマンです。
「運動が大好きな石塚が、どうして茶道?似合わねえ。すぐにやめるよあいつ。」
と、同級生によく言われました。
確かに茶道を始めた理由は「着物を着ておいしい 和菓子が食べられるから。」でした。
お茶のお稽古は約3時間。 私は先生のご自宅から自分のアパートに自転車で帰ると、真っ先にその日の教えをノートにスケッチし、毎日それを見ては次のお稽古に望みました。
試験前であっても、学校を休んだ時でもお稽古には必ず行きました。
お点前を覚えることはもちろんですが、茶道の歴史や禅の思想、茶道具の来歴や分類など、色々な本を読み、私はどっぷりとその深みにはまりました。
音山先生は医師としてのお仕事が大変お忙しいかたでしたが、さまざまなお茶事をして下さったり、大先生のお稽古に連れて行って下さいました。
我々が茶会や茶事のトレーニングを重ねることができたことは、一生の宝です。
そしてなにより茶道が好きで、今でも茶道のことをお話できる茶友がいることは感謝してもしきれません。
今日も朝5時に私はお抹茶を茶こしでこして、一人でお薄を頂きました。
茶道具はありませんから、やかんにご飯茶碗を使ってのお手前です。
静かな自分だけの贅沢な時間を楽しんだ 後は、嵐のように忙しい朝の家族の出発を手伝って、大田原赤十字病院に向かいました。 そして、無事にアレルギー反応も起こらず治療が終わったので、ゼリーのお礼と病状報告のために音山先生にお電話をしました。
「かつての私は周りの人と自分を比べ、いつも心が休まらず焦っていました。余裕のない毎日を過ごしていた頃を考えると、今は全く別世界に住んでいます。」
そう申すと、
「それでいいの。また元気になったら医者を必ずするの。あなたを待っている人たちのために。今は充電しときんや。」
と言って下さいました。 そしてその事を院長に話すと、
「もういいよ。生きていてくれるだけで。」
と言わんばかりに仕事をするなとずっと言っていた院長が、「待ってるよ」と小さな声で呟いてくれました。
嬉しくて涙が出ました。
いかなる状況におかれても、私が私らしく生きていくための耐えうる力があるか否かを試されている今、どのようにして力を抜いて、ゆるく楽しく生きていこうかと毎日考えています。
がんになると何が起きるのか、患者である私たちは何を思うのか、家族はどうしていけばいいのかを、いつかどこかで発信できたらいいなとも思っています。
今日は、一つ嘘をついてしまいました。
主治医に会えることを楽しみに受診しましたが、その際主治医から
「郡山さん、何か隠している事はありませんか?」と。
「いいえ、ありません。超元気です。」と申すと、主治医は微笑んで下さいました。
しかし、今まもなく朝になりますが、隠していることがあることに気が付きました。
「自分で自分のことができる時間はあとどのくらいの見通しがあるのでしょうか。教えて下さい。知りたいです。」
こう質問したかった。
しかし、私は医者だから、この答えは推測でしか語れないものであることを十分わかっているから、聞けないのです。
7月に治療効果を判定します。 今度こそ、効果あり!と信じています。
皆さん、どうかもう少し待っていて下さいね。
平成24年6月9日
郡山純子
幼いころ、宇宙飛行士になる約束を交わした兄弟が、それぞれ異なる人生を歩みながらも互いに宇宙を目指す姿。
希望と夢がぎゅっとつまった映画でした。
私の中で一番好きな映画となりました。「宇宙兄弟」見てね! -
2012年6月9日
崖っぷちの人生
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元気になると何を書いたらいいのか悩んでしまい、なかなかブログを更新することができませんでした。
年末までは、私の指先はとても不自由でした。 お札やコインを財布から出すのが難しく、駅の券売機前で『おまえ、早くしろよ』と注意をされたり、何度も何度も『切符をお取り下さい』という自動音声がなる度に、社会についていけない自分に情けない気持ちでいっぱいでした。
しかし、年が明けたとたんにものすごく体調が良くなり、復活した自分を嬉しく思っていました。
「今年は決して無理をしないから、少しずつもとの生活に戻りたいな。」
と思えば思うほど、生きる力がわいてきて、生活が楽しくて仕方がありませんでした。幸せな毎日でした。
「今日から3月になったし、外科外来が終わったらブログを書こうかな。」
と思い、ブログに書く内容をメモ帳に書きながら待合室で待っていました。
髪の毛がはえてくるとやっぱりうれしいです。
私もつくづく女なんだなと思いました。
息子と水泳を始めました。先週は1.5キロも泳げました。
家にいるのでお料理が上手になりました。
「あと、何を書こうかな。」と考えていると、「郡山さん中へどうぞ。」と看護師さんから呼ばれました。
2月20日にとったCTと採血の結果説明の日です。 すると、CTには小さなガンがうつっていました。
「なんでまた出てきちゃったのよ。腫瘍マーカーは陰性なのに。今、最高に元気なのに。」
予想外の結果でした。 人生は思い通りにはいかないものですね。
がんワクチン、免疫細胞療法、たくさんの方々から色々なアドバイスを頂きましたが、やはり私は主治医を信じていこうと思います。
待てない状況だと無理にお部屋を空けて下さった病院の全ての皆さまのおかげで、来週から抗がん剤治療を再スタートすることができます。
本当にありがとうございました。
新しい薬である分子標的薬が効くと信じ、効いたらまた良くなると信じて、がんばって参ります。
信頼すると、心が平らになります。
でも、いくらこの私でも、1年前にがんを告知された時と同じで、突然不安が襲ってきます。
そして、正直なところとてもくやしい。 家族全員の目に涙が浮かびました。
しかし、前にもまして深く、前向きに、元気で生きようと思えました。
がん細胞が死ぬという結果からできた抗がん剤とは違って、こうすればがんを抑えることができるという理論から生まれた分子標的薬。
この薬で、どうかがんが消えますように。
平成24年3月1日
郡山純子 42歳になりました。 2012年3月1日