たまご焼き
2010年7月~2012年12月
ぶどうジュース
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来春立志式を迎える娘は、こんな文章を書いていました。
・・・・・・今でも忘れる事のできない3月11日の大震災の日。
あの日母は大学病院から学校で待つ私や友人達を迎えに、下野市から車でかけつけてくれました。
日本が一瞬にして変わってしまったあの日。
夜7時に学校にたどり着いた母の顔を見た時には、私はほっとしました。
水と夕飯とおやつを買い込み、信号のない道路を走ってきた母は、私達以上にそうとう疲れたかと思います。
でもいつもの母らしく、
「ゆーちゃん高校合格おめでとう!お祝いのケーキを車の中で食べようね。」
と友人の合格祝いを車中でしてくれました。
それから約4時間かけて那須塩原市に戻ると、母の顔は変わりました。
母と私は病院にかけつけました。
受付ロビーにしきつめられた布団。
こごえるような寒い夜に、ストーブを囲むようにして患者さんとご主人の間で、小さな生まれたばかりの赤ちゃん達が寝ていました。
想像を絶する光景でした。
そしてこのロビーの地べたで、ろうそくのともしびを頼りに、みんなの見守る中で赤ちゃんは生まれてきました。 次の日は、私も母とともに自宅の全ての布団を病院に運び、パンとゆで卵を配ったり、水やトイレットペーパーを買いに行きました。
余震があるとすぐに病院に飛び込んでいく両親。
不安で震える患者さんや家族に声をかけ、命の誕生を助けていた両親は、不眠不休で現場を守っていました。
そんな両親とともに、小さな力ではありましたが、私も患者さん達のために働くことができたことは、一生忘れることはありません。
そしてその現場には、医師である両親ばかりではなく、看護師さん、受付の方、給食を作る方、お掃除をする方、電気屋さん、様々な職種の方が一つになって患者さんを助けていました。
そしてどの方も笑顔で患者さんを守っていました。
笑顔は人生の最高の財産である事をこんなにも感じたことはありません。
震災から4カ月がたった今、あらためて自分のなりたい職業を考えています。
震災でみんなが助けあい、命をつなぐ大切さを学びました。
これまでは、生きているのが当たり前で、その上でよりよく生きるとか、自分を磨く事ばかり考えていましたが、3月11 日以降は、今日一日命いっぱい生きることの大切さに立ち戻った気がします。
この震災で経験した事を胸に、決してあせらず、自分が納得し満足のできる仕事を探していこうと思います。
笑顔いっぱいの大人の自分を夢見て。
私は返事を書きました。
出逢いの大切さを娘へ伝えようと思います。
歳を重ねるごとに大切なものが見えてきます。
お母さんは、どんなに小さな出逢いでもそれを大切に生かせる人は、人生をいっそう輝かせることができると思っています。
恋愛について言うならば、どんなに深く愛しても終わりが来るかもしれないし、いくら好きでも永遠を誓うなんて簡単なことじゃない。
どうして気がつかなかったのかなと思うような、素敵な人を見失ってしまうかもしれません。
しかし、あなたを心から大切に思ってくれる人は、必ずずっとそばにいてくれるから。
だから、女の子も男の子も大切にして、当たり前と思ってしまいがちな幸せを忘れないで下さい。
「もうすぐ医者になって20年だね。負けんなよ。」
先日久しぶりに会った親友からこんな風に言われ、胸が張り裂けそうになりました。
「あの頃を考えたら、がんの治療なんてちょろいもんだよ。」
と言ってくれた恩師もいました。
無我夢中だったフレッシュマン時代。
お互いの夢を語り合いながら必死にトレーニングを積んだあの頃の親友や恩師は、一生の宝物です。
だから、娘にもそんな出逢いをして欲しい。
ぶどうジュースみたいな。
平成23年12月19日
郡山純子
昨日私の最も大好きな恩師が宇都宮まで来て下さいました。
「郡山だけはやめとけ」と言われたのに結婚してごめんなさい。 先生から頂いたまねき猫、大切にします。 -
2011年12月19日
抗ガン剤治療を終えて
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私の髪の毛は、毎日シャンプーをするたびにぱらぱらと音を立てて落ちました。
洗面所で散らばる髪の毛を集め、人工肛門の袋を取りかえるたびに思いました。
「ガンに勝てなくてもいい、負けなければいい。」
いよいよ、あれだけ遠く感じていた山の頂上が見え始めてきました。
今回も採血結果を待っている間、
「最後ファイトだぞ!」
「終わったら何する?」
「純ちゃん頑張ったね!」
などとたくさんのメールを頂戴しました。
そして主治医から採血結果に問題がないことを伺い、最後の治療を予定通り行うこととなりました。
「最後かあ。」と思いながら外科外来から化学療法室まで歩いて行きました。
ガン患者の生活には、つらいことや不安なことや不自由なことがたくさんあります。
私もあの気持ちの悪さと頭痛とめまいの日々は、もう二度と経験したくないと思っています。
しかし化学療法室という場所は、自分と同じ病気を抱えた人達ばかりなので、ある意味安心できる場所でもありました。はじめは緊張しましたが、回数を重ねるたびに患者同士のお付き合いができるようになり、最後にはすっかり打ち解けて、病室の中で笑い声を出していました。
化学療法室に着くと体重を測定しパジャマに着替え、トイレをすませてベットに横になりました。
そして看護師さんにこの2週間の病状を伝え主治医を待ちました。
10時に主治医から左胸のポート(針を刺す池のようなもの)に針を刺して頂きました。
毎回痛くて左の肩がベットに沈んでしまい、先生は刺しづらかったと思います。 だから、今日こそはと胸をはりました。すると、
「最後ですね。よく痛みに耐えてくれました。」
と主治医は微笑んで下さいました。 点滴の中には最初に眠くなる薬が入るので、私は自然に眠くなります。
そしてお昼前の苦しい時に、今回も江里先生が来てくれました。
頑張ったねと手を握ってくれたことはわかりますが、手も足も思うようには動きません。
「いいよいいよ。」と言って江里先生は帰って行きました。
「あともう少しだ、次の2剤目の抗ガン剤が入れば終わる。」
抵抗したり拒絶したり悲観した自分を思い出しながら耐えました。
そして、午後2時に院長が迎えに来てくれ、お世話になった看護師さんとお別れをして車に乗りました。
この道を通って母の車で、娘に手を握ってもらいながら救急外来に向かった時の絶望感は、まだありありと心に刻まれています。 娘は必要と思われる全ての人に連絡を取ってくれ、子供とは思えない冷静さで対応していました。
私も自分の置かれている状況を冷静すぎる程頭で処理していました。
あの時から7カ月。
私はなんて幸せなんだろうと心の底からうれしく思いました。
この7ヶ月間、私が一番ありがたいと思ったことは、子供達がこれまでと何も変わらず接してくれたことでした。
ガンだからといって特別に気を使ってくれるわけでもなく、遠慮することもなく、普通に過ごしてくれました。
後ろ向きなことや弱音は一切言わず、私の病気を踏み台にして大きく成長していました。
一方、この7ヶ月間私がずっと苦しかったことは、「ごめんなさい。」と皆さんにお伝えできなかったことです。
私は主治医に会うたびに色々なことを思っていました。
「先生、昨日は眠れたかな。」
「疲れていないかな。」
「お食事とったかな。」
「リンゴジュースが好きなんだな。」
「先生床屋さんにいったな。」
「無駄なことはお話せず、早く私の診察を終わるようにしなくては。」
などと、毎回主治医にお会いする度に先生を観察し、一人で満足していました。
皆さんも私を観察していましたでしょ?
患者という立場で「お医者さん」と呼ばれる医師と接することがほとんどなかった私は、今回ガンになったことで、患者さんの気持ちがとてもよくわかりました。
患者にとって、主治医に会えることは最大の喜びであり、主治医じゃなくては嫌なのですよね。
それなのに、震災とともに突然いなくなってしまった私。
それもガンだと知った皆さんは、どんなに苦しかったことでしょうか。
申し訳ない気持ちでいっぱいです。
生きるには一人では限界があります。
好きな人とうれしいことも悲しいことも共有し、感動を分かち合えてこそ人生です。
では私にとって好きな人とは誰なのか。
それは家族やスタッフや恩師や友人はもちろんですが、私を大切にして下さる地元の皆さんなのです。
何百通ものお手紙やお写真やブログへのコメントは、孤独な夜を過ごす私にとって、生きる勇気の源でした。
そして街で偶然会えると涙を流して下さり、元気で良かったと抱きしめて下さる皆さんに感謝の気持ちでいっぱいでした。 正直なところまだ若い自分にとって、死を想像するのはとても怖いです。 本当につらい時があります。
初期ではないガンには勝てないかもしれません。 しかし、生きている限り叶えたい夢はあります。
せっかくガンになったのだから、ガンにならなかった人生よりも有意義だったと思いたいですし、また皆さんに会いたいのです。 「もの足りないと思うくらいの人生を歩んでみてはどうでしょうか。」と教えて下さったメンタルクリニックの時永先生のお言葉を忘れずにいようと思います。 そして「純子のばか!」と言ってくれた親友草崎主任の言葉も忘れません。
そうしていくことで、無理ない範囲で少しずつ復職していきたいと思います。
年明けに3回目の手術をして、私の治療は一段落します。
もう少し待っていて下さいね。
平成23年10月31日
最後にお別れとお礼を伝えたかった方がいます。
いつも抗ガン剤治療の時に隣のベッドから私を励まして下さった方です。
本当に心強かったです。 これからも治療を頑張って下さい。応援しています。
郡山純子 2011年10月31日
弟が副院長となる日
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10回目の抗ガン剤治療が終わりました。あと2回、10月末に終了です。
今回はつらい治療でした。抗ガン剤が体内に入ると頭痛が激しく、口の中でどくどくと音がなります。
首や胸が苦しくて、手足はびりびりとしびれ、体が重くて病院のベッドから起き上がれませんでした。
私は今まで治療を受けている間に悲しくなる事は一度もありませんでした。むしろありがたいなあと思うばかりでした。
しかし、「せつないね。」と担当の看護師さんに言って頂いた時に、偶然にも大学時代の大好きな友達から「どうだ?また会えるかな。」とメールが届き、我慢しきれず涙が出てしまいました。
患者様への運動療法と言いながら、自分の健康維持としても頑張ってきたエアロビクス指導。 朝のピラティスやランニングも大好きでした。
食事は野菜中心で肉も魚もバランスよく食べていましたし、お酒も決して多くなく、煙草も吸いません。
どうして? と思っても仕方がないので、変える事の出来ない事実は受け止めて、変える事が出来ることは努力しようとこの半年間頑張ってきました。
しかし今回は
「どうして癌なんかになってしまったのかな、くやしいな。」
と思ってしまいました。
14時に治療が終わり、持ち帰りの抗ガン剤ポンプを首にさげて院長の車に乗り、自宅に帰りました。
指先がしびれてブラウスのぼたんを外すこともできないので、着替えさせてもらい布団に入りました。
今週末土曜日は弟の副院長就任パーティー。なんとしても復活しなければ。と思いながら目を閉じました。
すると、夢の中に直子先生が出てきました。
直子先生は私の代わりに当院の外来を助けてくれている心の優しい先生です。
「純子先生、人が体をもって生まれてくるのは五感を楽しむためなのよ。色々な感覚を通してたくさん感動するために自分の体があるの。人生の唯一の目的は何だと思う?幸福を経験することなのよ。」
と言って微笑んでくれました。
確かに、癌になって私の感覚は研ぎ澄まされました。
一つの感覚が使えない時でも他の感覚を使って元気になることができました。
そして、どんなに体がむしばまれても、心を自分自身が傷つけない限り、健全だと思えました。
目が覚めた22時頃、子供達は塾から帰ってきました。
私と同じように受験勉強を頑張っている拓也。
吹奏楽部の副部長になったあげは。
布団の中でぐちゃぐちゃに寝ている私の頭をなでてくれ、 「よく頑張ったね。」と言ってくれました。
次の日。朝目覚めると体はだいぶ回復していました。
「よかったあ。」と思いながら朝ごはんを作り、子供達を見送りました。
そして、私の体を術後からずっと守って下さるパーソナルトレーナーの先生から1時間のマッサージを受け、パジャマから洋服に着替え月末の決算会議に出席。
当院を担当して下さる会計事務所の方々はとても素敵なかたで、月に1度会えるのが私の楽しみなのです。
今まで診療を中心に石塚産婦人科を守ってきましたが、今や明日の自分の体調が見えない状態ゆえ、裏方にまわろうと決心しました。経理の仕事はなかなかおもしろいです。
夜になり、共同研究をしているカゴメの研究員から連絡が入り、学会に演題が通りましたと報告を受けました。
彼らが医学学会それも更年期の学会で発表できることをずっと応援してきたので、夢がかなってとても嬉しかったです。 学会のスライドをばっちりサポートし、徳島県へ私の気持ちも連れて行ってもらいたいです。
そして今日10月1日土曜日。私の体は復活しました。完璧とはいきませんが、なんとかパーティーの司会進行をすることができそうです。
私の病気のためにたくさんの犠牲をはらって副院長になってくれた弟です。
感謝の気持ちを込めて、今日は楽しい会となるよう頑張ってきます。
場所はイタリア料理アルアイン(address: 那須塩原市下永田1-1003-1 tel: 0287-36-9844) このお店はプロの味をもちつつ、実家に帰ってきたような温かい雰囲気で我々を迎えて下さる素晴らしいレストランです。
是非みなさんも行ってみて下さいね。
いよいよ、私の抗ガン剤ポンプもしぼんできました。針を抜いてお風呂に入ろうと思います。
今日は久しぶりに45人のスタッフに会えるのでとても楽しみです。
大好きな人に囲まれて楽しい食事ができる、そういう日常がどれだけ幸せで尊いものかを感じています。
平成23年10月1日
先日、親友江里先生に葉加瀬太郎さんのバイオリンコンサートに連れて行ってもらいました。 笑って泣いてみんなで騒いで胸がキュンと熱くなるコンサートでした。 -
2011年10月01日