たまご焼き
2010年7月~2013年8月
病室
-
震災によるストレスかと思いながら、不眠と便秘に悩んでいました。
震災から三週間目の4月5日、あまりにもおなかが苦しくて、午前の外来後、娘に手を握ってもらいながら布団に入りました。
15時に予約をした外科受診時に、まさか自分が癌だと言われるとは思いませんでした。
人は悲しみの中に希望を抱き、その希望が叶うかもしれないと思うと、心が満たされて明るくなります。
明るくなると前向きになり、手術や化学療法への不安もなくなり元気になれます。
でもまた夜が来ると、人はそれほど強くはありませんね。また悲しみの中へ帰ってしまいます。
99歳の詩人柴田トヨさんがくじけないでと言って下さるように、心を救う言葉が欲しくて、あがきもがいています。
でも、私はひとりぼっちじゃない。こんなにもたくさんの方々が助けて下さいます。
幸せで胸がいっぱいで、言葉にできません。
直腸癌。決して初期ではない。
変えられるものは変える勇気と変えられないものは受け入れる勇気を持って、明日の手術に向かいます。
しばらくの間、お休みを頂戴いたしますが、必ず帰って参ります。
また一緒に泣いたり笑ったりしながら診察させて下さい。
また一緒におもいっきりエアロビクスをさせて下さい。
待っていて下さいね。
2011年4月12日
結婚記念日 院長ありがとう。
郡山純子 2011年04月12日
きずな
-
震災から2週間がたちました。
この環境を受け入れて、皆さんは毎日各々の立場で頑張っていらっしゃると思います。
私達スタッフも、必死に病院と患者様をお守りしています。
「助け合おう。一人じゃないよ。我慢しないで。きっと日本は元気になれる。」
そう言って励ましあいながら過ごして参りました。
ママになりたいと通院して下さるプレマタニティーの皆さん、本当に申し訳ございません。
自家発電の備蓄燃料が不十分であるため、治療を延期して頂きました。
しかし、そんな苦しい中でも「先生頑張って下さい。」と言って下さり、院長と私は涙が止まりませんでした。
外来で泣かれたり震える患者さんがたくさんいらっしゃいます。
皆さん、ふさぎこんでいた気持ちをもっと出して下さっていいのですよ。
我慢しないで下さい。
栃木県を離れて出産をすることになったたくさんの妊婦さん達、皆さんよいお産をされて下さい 。
ずっと一緒です!
福島から避難されてきた皆さん、不安な時はいつでもいらして下さい。
かかりつけの先生や看護師さんと同じように診療ができるよう、精一杯努力いたします。
被災地の大変な光景や被災者の方々の思いに涙し、そして新たに懐中電灯の灯の中で生まれてきた命に涙しました。
大切な命。しっかり育て、そしてこの事を子供たちに伝えて行こうと思います。
院長の両親は仙台におります。やっと連絡がとれた時には力が抜けてしまいました。
今なお断水のため外で穴を掘って排便をしています。
「傘をさして寒い日におしりを出すのはなんだね~。」
と言われた時には胸が苦しくなりました。迎えに行きたいけれどガソリンがありません。
夜行バスで東京まで来れば、新幹線で那須塩原までは来られるからと何度も誘いましたが、仙台に残っています。
「近所の方々と協力してさ、不自由な生活だけんども不自由ながらに楽しく生活しているよ。」
と力強い言葉がかえってきました。80歳です。
患者様は私にとって家族であり大きな支えです。
皆さんが少しずつ元気を取り戻して下さいますよう、これからもスタッフ一同全力でサポートさせて下さい。
2011年03月26日
オルフェオとエウリディーチェ
-
「はじめまして、郡山です。」
「長旅ご苦労さまでした。」
この2、3回の会話の中で、すでに私はこの女性にものすごい魅力を感じていた。
黒髪にとても大きな瞳。トレンチコートがお似合いの素敵な女性と出会ったのは、ドイツのミュンヘン国際空港である。私は9月13日から3日間、国際学会での発表のためにミュンヘンに行った。
今回の学会は一人旅であったため、事前に日本の旅行会社を通して日本語可能な車というのをお願いしたのだ。
私は当然ドイツ人の男性が少し日本語をお話下さるのだと思っていたが、実際にはドイツ人の大きな男性とともに、日本人の彼女が到着ロビーで待っていてくれたのである。
「昨日はすごくいい天気だったのですよ。」とお話下さる彼女は、ミュンヘンに長く住んでいるのだそうだ。
車窓から見えるミュンヘンの空はどんより曇っていたが、天気なんてどうだっていいと思うくらい、彼女とのお話は楽しかった。特に、「私は音楽をしておりまして、その合間にこうして旅のお客様のお手伝いを時々しているのです。」と教えて頂いた時から、お互いの職業の話で盛り上がった。
我々医師は大学の2年間にドイツ語を学ぶが、これが全くもって役に立たない。
一方、彼女のドイツ語はとてもきれいでなめらかで、聞いているだけでうっとりしてしまう。
ホテルでモジモジする自分を想像しながら日本からミュンヘンに来たが、彼女は私の代わりにホテルのチェックイン、部屋の鍵の開け方(これがなかなか開かない)、インターネットの接続をして下さり、最後には周辺のおいしいお店や素敵な公園と食料品市場を地図に記して下さった。
いよいよお別れかと思うととてもせつなくて、最後の最後まで失礼かと悩んだが、我慢できずに「お名前を教えて下さい。」と申した。すると、「須藤みやびです。」とおっしゃって下さった。
なんて素敵な響きだろうと感動しながら、お互いのアドレスを交換し合い、お別れをした。
次の日、学会の準備も一段落したので、朝5時に起きて英国庭園まで走って行った。
ミュンヘン最大の憩いの場所と言われるこの公園はイザール川の西にある人工公園で、森を始め、人工の川や湖がある。園内には1972年のミュンヘンオリンピックの開催を記念して、日本が贈った日本茶室もあった。
「私はミュンヘンのイザール川付近の木の香りが大好きなんです。」
とみやびさんがおっしゃったから、私は肺が爆発するくらいたくさん空気を吸ってみた。
なるほどなんておいしいのだろう。約1時間半のランニングタイムは、最も楽しいひとときであった。
そして短い3日間の滞在ではあったが、私は今まで行ったどの国よりもドイツが好きになったのであった。
帰りの搭乗手続きをするためにANAのカウンターに向かうと、同じ学会に参加した日本人の先生方がたくさんいらっしゃった。普通の席に座る私の列はとても長く、待っても待っても順番が回ってこない。早く荷物を預けたいなあとぼーっとしていると、カウンターで日本人観光客の手続きのお手伝いをしている人がいた。
後ろ姿ですぐわかる。あ!!みやびさんだ。
美しい姿勢でてきぱきと通訳をされながら、仕事をこなされる彼女の姿を伺い、勝手ながら親族のような気持ちになってしまった。
「かっこいい!みやびさん!こっちを向いて下さい!」
すると数分後に彼女は私に気づいてくれたのだ。
「みやびさ~ん!」と大声で叫び、ちぎれるくらい手を振ると、にっこり微笑んで下さった。
また会えた。うれしいな。そう思いながら彼女のお仕事の邪魔にならぬよう、自分の手続きを済ませ、搭乗口へと向かった。日本にお母さんを残してドイツに在住しているのだという。
しかし、時差こそあるものの、お母さんとは毎日食事を一緒にして、テレビ電話でお話をしているのだそうだ。
歌を指導されるみやびさんのお母さんは、きっと有名なかたに違いない。
その血を受け継いで、みやびさんはミュンヘンで音楽活動をなさっているのだ。
日本に帰ってきて、お礼のメールをすると、みやびさんはご自身で日本語訳をされたオペラを紹介して下さった。
「オルフェオとエウリディーチェ」
今私はそのオペラを見ている。 私のような初心者にもとてもわかりやすく、至上の愛を物語る音楽は劇的だ。
さらにオペラの合唱が影の主役と言っていいくらい、充実したオペラで涙がこぼれた。
私はみやびさんの日本語訳の全てに、彼女の魂を感じたのだった。そして、みやびさんと自分に共通点があるような気がした。すなわち、仕事は誰かとの勝ち負けではないのだ。
もちろん受賞した数やコンサートの集客人数、私でいえば病院の受診患者数や研究論文の数はひとつの目安ではあるが、本質的には仕事とは他人との比較ではない。何より大切なのは、自分がその一つ一つの仕事に満足し、自分の目標に達成しているかどうかだ。
つくり手の私達は常に自分との闘いなのである。
時には孤独で時には華やかで。
でも静かに心の奥底で常に自分に厳しくしていないと、モチベーションが保てないばかりか、他者からの批評や形にとらわれてしまい、本来の自分の力が出せなくなってしまうのだ。
私はみやびさんに出会えて本当によかったと思う。私もみやびさんのようになりたい。
日々前に前にと進めるように努力の日々を積み重ねながら、達成したいと思う目標のバーを少しずつ高めていき、向上していきたいと思う。
医学博士になれたら、みやびさんに会いにミュンヘンに行きたい。
2010年10月04日