親子の絆
2009年
西小学校親子エアロビクス
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那須塩原市にある西小学校から依頼を受け、小学1年生の親子を対象としたエアロビクスを担当することになった。
子供達の笑い声と親子の嬉しそうなふれあいを想像しながら当日を待ち望んでいた。
しかし前日の月曜日に突然顔が腫れ上がり、悲鳴をあげたくなった。
ボクシングでノックアウトになったような目と唇。稲刈りが始まったことによるアレルギー反応なのか、とにかく皮膚科に行って助けて欲しいと泣きついた。
高山クリニックの院長先生は、
「その顔で西小学校に行くのは、けっこうギャグでいいんではないですか?もしくはグラサンしてエアロするとか(笑)」
などと励ましてくれる。深刻に話されるよりもほっとする。患者さんの気持ちがよくわかる瞬間だ。言われたとおりにビタミン剤を飲み、目や唇に薬を塗りまくって、Jスタジオのプレマタニティビクスに戻った。
その日は本当は私がレッスンを担当する月曜日だった。しかし、この顔のひどさを心配して戸崎インストラクターが代行をしてくれたことから皮膚科を受診できたのだ。
薬をもらって急いでスタジオに帰ると、プレマタニティビクスのレッスンを終えた参加者がみんなで私を心配してくれた。
その中でも一番心配してくれたのが、原さんだ。
彼女はご自身が皮膚の強い炎症といつも戦っている。
「アレルギーが出る時は、過度のストレスと睡眠不足です。先生、ゆっくり寝て下さい。明日親子エアロビクスがんばって。」
こんなメッセージを頂いた時に、涙が止まらなかった。
自分を心配してくれたことだけでなく、彼女のつらい時に同じように彼女を安心させるようなメッセージを自分は伝えてきただろうかと思ったからだ。
西小学校は校舎や体育館がとても立派で、とくに体育館の音響効果はばつぐんであった。
戸崎インストラクターと念入りに音をチェックして、スタートの10時を待った。
すると大きな足音を立てて、わーっと可愛い1年生達が体育館に入ってきてくれた。
「今日はお母さんが来るんだ。先生、私こんなに足が上がるよ。」とか
「今日朝ごはんたくさん食べてきたから運動できるよ。」
などと一生懸命話しかけてくれる子供達。みんなの目がキラキラと輝いていた。小学校に入ってやっと半年。たくさんの夢と希望をランドセルにつめて毎日学校に通っている。
色々なものを見て、色々なことを知って。それらがこの子供達の心に根をはり、芽を出し、花を咲かせたんだ。
子供達の笑顔はひまわりみたいにまぶしかった。親子エアロは大成功に終わり、私も大満足だった。
だから私は、最後に宿題を出させてもらった。
「今日の宿題はだっこだよ」と。
ちょっと照れくさそうに母親を見る男の子。そしてさっそくだっこをねだる女の子。みんな幸せそうだった。妊娠・出産・育児。その感動は、言葉にできないくらいだ。
そして今回の親子エアロビクスの感動も同じだと思った。この幸せをなんとしてもプレマタニティーのかたにプレゼントしたいのだ。
すべてのママになりたいという願いを、一日でも早くよりよい形で叶えてあげたい。人は皆、何かしらどうにもならない苦しいつらさを背負っている。でもその中で生きている。生きるってつらいね。でも苦しい時の涙の雨と、負けないという希望の太陽があれば、きっとすばらしい花が咲くと私は信じている。だからみんな、一緒にがんばろう
2008年10月7日
自治医大の学生になりました その2
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「研究はうらぎらないよ」
「研究があって、日々の診療があるんだよ。」
「自分にできることを精一杯がんばりなさい。」
いつでもどこでも新しい発見や考えが浮かぶと電話で教えて下さり、
「常に一緒だよ」と励ましてくれた昔のボス兼子先生は、元気だろうか?
時々そんなことを思いながら自治医大で研究をしている。
精子に抗体がついている人はいないかしらと、朝の9時から夜中の12時すぎまでずっと精子を見ている。
顕微鏡を見ている時間が10時間を越えると、船酔いのような変な気持ちになるのがつらい。でもおもしろい。大学にいると15年前の自分と同じフレッシュマンがたくさんいる。
覚えることがたくさんありすぎて頭がパンクしそうになった私は、当時24歳。
優しい先輩が朝サンドイッチを差し入れてくれた時、嬉しかったなあ。
食事なんてほとんど自由に取れなかった。食べられる時に2食分食べとけとか、食事は5分だとか。内診台のすみっこで飲むように一気に食べたらしゃっくりが止まらず笑われたっけ。
さらに、おなかがいっぱいになったら睡魔が襲ってきて採血しながら寝てしまい、おまえは帰れと怒鳴られた。
あの頃の睡眠時間は3時間しかなかったのだ。
若いからできることであり、当直は月に20回の時もあった。しかし、時代も変わり女性医師が増えたこともあって、自治医大ではフレッシュマンの先生の生活は十分保障されているようだ。
それなりに不満や希望はあるようだが、昔を思えば幸せなほうだよとついつい言ってしまいそうになる。
でも、これを言ってはおしまいなんだとぐっとこらえる(笑)皆さん、難しいことを優しく、優しいことを深く、深いことを面白く言えますか?
私が尊敬する柴原教授はそんな方だ。
教わって「知る」、それを自分で使えるようになるのが「わかる」、そしてそれらを深めていくうちに難しいことも自力で突破できるようになる。
これが「さとる」ということ。
私の研究はまだまだ「知る」というレベルであるが、いつか抗精子抗体についてさとったら教授のように深いことを面白く言いたいなあ。私は、心を閉ざさず前向きに生きていれば、必ず道は開けると信じている。
願えば叶うとキューちゃんが言ったように。どんなに小さな出会いでも大切にしたい。出会いはいつも偶然だけれど、それを必然のものに変えていくのは自分の意思力なのだ。
そして強い意思があれば、人生の素晴らしさを味わうことができる。私はこの数ヶ月でつくづくそう思った。いつか子供達にも教えよう、そう思っていたら我が子から一通の手紙をもらった。
お母さん、いつもありがとう。
お母さんの生活が変わったから、私は毎日の宿題や習い事をがんばろうと決めました。
お母さんは年をとっているから、無理はしないでね。
お母さんに私のトトロのノートをあげます。このノートで博士になれるように5年間がんばって下さい。
つらいことがあっても、いつでも一緒に考えてあげるから。
これからもがんばるんだよ。
それとね、ちなみに私は医者にはなりましぇ~ん!!!
あげはより。恐るべしあげは。もはや親子関係は逆転である。
2008年6月4日
自治医大の学生になりました その1
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私は今年の2月から、自治医科大学産科婦人科学教室の研究生になった。
私の専門は男性不妊症。専門だなんてまだ百年早いと思うが、精子が好きでたまらない。
はじめて精子を見たのは医師になって2年目の時。不妊症研究室の兼子先生の顕微鏡をのぞくと、まあいるじゃないかおたまじゃくし!より良い精子を選ぶためにはたくさんのテクニックが必要なことがわかる。
その選別のために兼子先生は朝から晩までずっと精子を見ていらっしゃるのだ。どうやら、新しい発見をするのは早朝のトイレタイムだとか。
また、枕元には常に鉛筆とメモ帳を置いていて、夢の中でナイスなアイディアが浮かぶとすぐにメモをとり、真夜中でも車を走らせ研究室に飛び込むのだと。
それに比べて私の研究というものは、週に一度の研究日にしか行うことができず、那須から千葉まで通う往復4時間という距離もネックだった。だから、そんな風に魂を込めて研究している自分のボスに対し、感動とともにうらやましさを感じていたのだった。「郡山先生が手術の糸結びの練習をしている間、僕はずっと精子を考えていたんだもの、僕が色々できるのはあたりまえじゃないか」
「手先が動いても、頭を動かさなくてはだめだよ。」
「どんなにがんばってもこれは個人の能力だから、僕みたいになれる人はそんなにいないんだよ。」
兼子先生は日本の体外受精を支えてきた第一世代の先生であり、私達研究生のあこがれだった。そんな先生のところから自治医科大学に移籍することを決めるまでには、本当に悩み苦しんだ。
でも、栃木県に住む限り、栃木県から確かなものを発信し、不妊症のかたのためにがんばりたいと思う気持ち、そして、なんとしても医学博士になりたいという夢は捨てられなかったのだ。
だから、千葉の研究室を離れ、自治医科大学の研究生になることを決断したのだ。
入学許可を得た時は、腰がぬけて台所で立てなくなった。初めて自治医大に挨拶に伺った日は、夜中に車のライトをつけ忘れ警察につかまった。想像できるでしょ?私の緊張度合い。早くも研究生になって3ヶ月がたつ。
だいぶ落ち着いてきたのでこうしてエッセイも書きたいと思えた。
車に乗って下野市まで約70分。千葉にいくよりぐんと近い。車の中では大好きな音楽をかけて元気をつける。
週に2回研究室に行くたびに、何か自分の心が気持ちよくたたまれていくような気がするのだ。
一生懸命がんばって広げていた心の緊張感。たまには折りたたみ傘のように、小さくまとめてラクになってもいいのかなあとも思えるようになった。
新しい研究室には、たくさんの先生や研究を教えてくれるかたがいる。私はおばさんゆえ、年齢がお若い先生方のおじゃまにならないよう必死だ。
でもどのかたも素敵で、出会えてよかったと心から思える。
移籍とともに自己実現における人生の選択肢の中で、振り子のように揺らぎ悩んだ私に、自由と希望を下さった教授。
この教授のためにも、自分にできることを精一杯がんばりたい。
そして、こんな気持ちを大切に持ち続けて生きてゆきたい。そう思うのだ。続きます。
2008年5月13日